なんでも良しとしとくれよ。

そういうことです。

暴風

f:id:painful-ira:20230502014408j:image

おじいちゃんが死んじゃった。風の強い一日だった。前日の面会時、看護師たちは「間に合って良かった」と言った。意識のないおじいちゃんの傍らで、私は間に合ったのだろうかと考えた。何日間も考えたお見舞いの言葉は頭からとっくに抜け落ちていて、「遅くなってごめん」「またくるね」しか言えなかった。前の記事に書いた通り、最後の時も私たちは間に合わなかった。脈がなくなる瞬間立ち会わなかったのだから、間に合わなかったのだと思う。親戚たちに「間に合ったの?」と聞かれて、叔父さんは「間に合わなかった」と答えていた。分からない。おじいちゃんはどこか自分のタイミングで命を手放したように思えた。私たちを待ち、再会し、心を整える夜を一日くれただけでもありがたかった。

 

あまりおしゃべりな人ではなかった。不思議なことに、普通のことを話しているのに面白い人だった。ぬいぐるみの様に座って、みんなの話をぽやっと聞いているのも好きそうだった。カラオケ大会で優勝するほど歌が上手かったらしい。トランプで遊んでいる時は「ハートのエースが出てこない」とよく歌っていた。引き出しにしまわれたトランプを見てみたら、ハートのエースはどれよりもボロボロだった。トランプで何回わざと負けてくれたんだろう。庭には洋梨の木があり、元々農家だったからか育てるのが上手で、毎年美味しい洋梨の実がなった。それを栃木まで送ってくれたこともあって、私はタルトにして焼いて食べたのを覚えている。

 

私が子供の頃から、おじいちゃんは日記をつけていた。天気と、その日あったことを3行くらい書いていて、私はおじいちゃんと眠る時だけそれを読ませてもらったのを覚えている。数年前、終活するからとほとんどを処分してしまったと聞いたけれど、病室に今年の手帳が置いてあり、それに日記が書かれていた。叔父さんに「読んであげて」と言われたので、目を通した。入院しても、おばあちゃんを案ずる言葉や、身の回りを整理する叔父への感謝の言葉が綴られていた。『つらい』や『悲しい』という言葉がなかった。『地獄』という記載はあって、そういえばおじいちゃんはそういう表現をする人だったな、と思い出した。

栞がわりに手帳を買った時のTSUTAYAのレシートが挟まっていて、形見分けというと大げさかもしれないけれど私はそれを貰った。よく見ると、そのレシートの日付は2022年の1月だった。要するにおじいちゃんは去年も同じ手帳を買い日記をつけていて、ずっとこのレシートを栞がわりにしていたのだと思う。レシートの裏にはおじいちゃんの字で『過去を追うな。未来を願うな。今やるべきことを為せ』と書かれている。調べたら、お釈迦さまの言葉だった。こっちに帰ってきてからコピーを撮って、ラミネートして栞にした。レシートに記載のあった、同じ手帳を買って、日記をつけ始めた。自分しか読まない、自分が満足すればそれで良い日記というのも、良いなと思う。今回暖かいものに触れすぎて、我に返った所もある。自己顕示欲の塊、SNSが気持ち悪く見えて仕方がないので、Twitterすら寄り付かなくなった。Instagramもまあ見ないし、ネットニュース類はそもそも疎いので、これでいいのかもなと思う。

 

最後にあった5年前、おじいちゃんに言われた言葉を思い出す。「いつ会いにきたっていいんだ。まあ、会いにきたって、話すことないって思うかもしれんけど、でも、死んでからじゃ遅いからな。死んじゃったら終わりで会えないから、会える時に会わんとな」とおじいちゃんは言っていた。いつも通り、床に座り足を撫でながら言っていた。私はそれに応えなかったことを、この先もずっと折に触れて後悔すると思う。おじいちゃんが入院するまで、おばあちゃんの身の回りのことはおじいちゃんがやっていた様子で、もう大分耳が遠くなって、数分前のことも忘れてしまうおばあちゃんと、2人で暮らせていた事は本当に奇跡的ですごいと思う。それと同時に、おじいちゃんが亡くなったことを覚えていられるかすら分からないおばあちゃんが1人ぼっちになってしまった事が切なくて、また会いに行かなきゃと思いながら帰った。

どうしてこんな家に産まれてしまったんだろう、と思っていた子供の頃の私を、ひっそりと救ってくれていたのがおじいちゃんだった。この人と血が繋がっているということが、嬉しかった人。私もおじいちゃんみたいな人になれるように頑張らないと。

4/24、4/25

4/24

葬儀場で目覚める。のろのろと化粧をして、朝食。鱈がおいしい。喪服に着替えてお葬式。長いお話を聞いていたけど、正直少し眠くなった。あっさりと帰るよりは温かみがあって嬉しい。トイレに行っている間に棺桶に別れ花を入れ始めていた。帽子やメガネを入れていて。私はいくつか花を入れたけれど、もう涙は我慢できる段階じゃなかった。姉と一緒にぐずぐずと涙を流した。蓋をして、顔の窓を閉じて、一緒のバスに乗って焼き場へ。北空知葬斎場という場所で、私の先祖の墓のすぐそばだと知る。最後のお別れをして、そこでも泣く。待っている間お昼ご飯を食べ、姉とおしゃべり。みんなで骨を拾う。私と従兄弟だけが、少しでも残したくなくて最後までしつこく拾っていた。骨壷を持って葬儀場へ戻り、骨揚げ法要を行う。北海道ならではなのか、49日を前倒しで行うようなものらしい。

祖父母の家に帰宅して、荷物を全部二階へ。今日はみんなここに泊まる。和室に小さな祭壇を作り、骨を置いて、拝んだ。余っているお弁当がたくさんあったのでそれをつまみつつ、たくさん話をして、笑って、食べて、飲んで、寝た。

 

4/25

7時前に目覚めた。サンドイッチを食べながら、『私は辛い日によくサンドイッチを食べるな』と思った。ルナが死んだ日も食べてた。のんびりと支度をした後、記念写真を撮った。おばあちゃんに「もう帰るね、またくるね」と声を掛けた。見送ってくれる?と聞いたけど嫌だと言うので車に乗る。別れを惜しんでいたら、玄関までおばあちゃんは来てくれていた。手を振って、姉と父と私だけ、10時半くらいに家を出た。母は少し北海道に残る。おじさんや従兄弟が見えなくなるまでずっと手を振ってくれていたのが見えた。優しいな。

ホームセンターで除草剤を買い、我が家のお墓へ行って撒いた。肝心のおじいちゃんのお墓は見つけられなかったので、また、もし一回忌で来れればお参りしたいなと思う。砂川ハイウェイオアシスに寄ってお土産を見ていたら、従兄弟夫婦と再会した。子供が遊べる施設があるらしい。

輪厚パーキングエリアに寄って、牛乳ソフトクリームを食べる。すごくあっさりしていて、でも物足りなさのない、乳臭さがない美味しいソフトクリームだったな。

f:id:painful-ira:20230429232412j:image

レンタカーを返してバスに乗り、空港へ。手続きを済まして荷物を預けてから、ラーメンを食べる。たくさんラーメン屋さんはあったけど、一幻のえびそば、あっさりにした。

f:id:painful-ira:20230429232621j:image

お土産を物色。旅行気分で来たわけではないのであまり下調べしておらず、悩む。お土産といってもほとんどが自分のものになった。

4/22、4/23

4/22

朝7時半にお坊さんが家に来て、お経を唱えてくれた。戒名や宗派の話を聞く。祖父はおそらく真言宗だという話だった。たくさんのアルバムを眺めながら祭壇の横に飾る写真を選んだり、洗濯をしていたらいつの間にか葬儀屋さんが来ていて、お通夜や葬儀の祭壇、供花、香典返しなどを決めていた。私は棺の色を決めさせてもらった。薄いブルー、水色をもっともっと白に近づけたような色にした。香典と、供物として姉と連名でコーヒーのセットを贈ることにした。

しまむらへ行って、数珠やネックレス、礼服やタオルなど必要なものを買って帰ったら、叔母さんと従兄弟、そのお嫁さんと猫が二匹来た。やっぱり再会は18年ぶりくらいで、大きくなったねぇ〜!とお互いに驚く。新婚で、家を建て始めているらしい。みんなで晩御飯を食べお酒を飲み、寝るスペースや布団の関係で、母父姉私はまた百合子さんのお宅へ泊めてもらうことに。ありがたくお風呂にも入れさせてもらって、話をしたりして、1時くらいには寝た。

 

4/23

喪服を持って、葬儀場のやすらぎホールへ向かう。もう1人の従兄弟と再会。奥さんと、2歳の息子もいた。祖父の体を拭く。一昨日の夜に祈りながら握っていた手が氷のように冷たかった。棺に収めたりしてから、喪服に着替えてお通夜。終わってからその場でみんなでご飯を食べた。知らない親戚の方たちもたくさん。ほとんど食べず飲まず周りと話したりしていたらあっという間に22時くらいになっていた。今日はこの葬儀場でみんなで雑魚寝の予定で、お風呂は一つしかない。時間短縮のため姉と一緒に入った。みんなが寝たあと母と姉と3人で少し飲み食いして寝た。「私たちの家の根っこはどうしても父のことになってしまうけど、もう自分の幸せを考えていいと思うよ」と姉が私に言った言葉が印象的だった。

4/20、4/21

20日、両親と姉と一緒に茨城空港から新千歳空港へ。驚くほど風が強い。レンタカーで移動して急いで吉野家でご飯を済まし、23時過ぎに祖父の入院する深川の病院に到着した。叔父さんも丁度到着して、18年ぶりに再会した。老けたのもあるけれど、ひどくやつれていた。

時間外なのでインターフォンを押して入って、消毒や名前の記入を済ませ、祖父の病室へ。祖父は目を閉じて酸素吸入器をつけ、点滴と薬のために両腕に針が刺されていた。枕元に名札があって、その横に私のあげたお守りが下がっていた。熱がある様子で脇や鼠蹊部を冷やしていた。声をかけたけど、何を言って良いか、散々考えてきたのに、分からなかった。今日は納内にある祖母の兄妹の娘さんである百合子さんのお宅に泊まらせていただく。祖母は和室で寝ていたので起こさず、1時くらいまで叔父さんと話をした。

昨日、あまりの痛みと苦しさに祖父は暴れ苦しみ、「もう殺してくれ」と涙を流していたらしい。医者と相談し、朦朧とする祖父に承諾を得てモルヒネを使っているとの事だった。絶対に弱音を吐かない父親のあんな姿を初めて見たと叔父さんは言っていた。強い薬なので意識はなく眠っている感じで、耳は聞こえてると言われているらしい。祖父の辛さも知らず、私が会いに行くまで頑張って生きていて欲しいと願っていた自分の身勝手さすら憎かった。

 

4/21

目覚めて、朝ごはん。身支度を整えたり荷物をまとめて、祖母が起きるのを待つ。姉が祖母を起こし話していたので私も顔を出す。痴呆があっても一応私のことを覚えていてくれて、顔にそっとさわって「丸くなったかい?」と言っていた。笑。「もうしばらく寝かせて」と言い眠ってしまった。話を聞くと、ほとんど食事をとってくれないし、毎日12時間くらい寝ているらしい。11時近くに家を出て病院へ。昨日と変わらない姿の祖父と15分面会をして、中華料理屋でご飯。ラーメンやチャーハンを小鉢によそったら、祖母は食べてくれた。祖父母の家へ行き、荷物を下ろして少し買い物へ。

晩御飯を食べていたら病院から電話が来て、夜の20時過ぎに叔父、母、私で病院に駆けつける。祖母が「行きたくない。話しかけても何の反応もしないおじいちゃんを見ると、頭から離れない。元気な姿で覚えていたい」と言うので、悩んだけど孫として私が行くことにした。1時間半は居たと思う。到着した時、電話をくれた時より安定したと言っていて、そこから動きはなかった。叔父の疲労もピークで、一旦帰ることにして病室を離れた。

もう少しで家に着く時に病院から電話がかかってきた。Uターンして戻り、走って、病室に駆け込んだけれど、間に合わなかった。脈が0になって、看護師が「すぐご家族が来ますよ」と呼びかけて戻り、また0になり、戻り、また0になって10秒くらいしてから私たちは病室に駆け込んだらしかった。1つでも信号に引っかからなければ、きっと間に合った。退院の予定だった今日、22時22分に亡くなった。看護師さんは「とにかく本当に本当に優しい方で。教育実習の子にも優しいし、ご飯は必ず残さず食べてくれて、野球をこっそり見せてくれたり。」と言っていた。遠方から来ていることも知っているので「間に合って良かった」とも。私の中では、間に合ったのか、分からなかった。

死亡確認を済ませたあたりで、父と姉と祖母が来てくれた。ため息をつき、「とうとう置いていかれちゃった」「じいちゃーん!目ぇ覚まして〜!」と祖母は言った。荷物を全てまとめて帰宅して、急いで和室を片付けて、深夜1時過ぎ、祖父の亡骸を運んでもらった。お風呂に入って寝る。

味方

いつだったか北海道の祖父に「死ぬの怖くないの?」と聞いたことがある。すでに80歳を越えていたと思う。「怖くないなぁ〜」と笑っていた。もう周りにいた人たちみんな死んでいるからという理由だった。

2月の下旬、祖父は入院した。私は電話が恥ずかしくて、3月の中旬、手紙を書いて地元の神社で買った病気平癒守りと一緒に送った。叔父の手に渡り、叔父から祖父の手に渡ったのは3月29日だったと思う。電話が来たので、家の電話から掛け直し、1時間くらい話をした。

お守り届いたよ、ありがとう、ベッドにある名札の横にぶら下げてるんだ、気にかけてくれる人がいるんだって、涙が出そうだった。たまにお守りを見るとぽろぽろと涙が出るんだ、ありがとうねぇ。と祖父は言っていた。

腎臓の病気は良くなってきており、体のむくみが取れ、歩いたり足をマッサージしたりして、余分な水分が抜けた頃、4月21日には退院するんだと言っていた。こっちはもう暖かくて桜が咲いてるよ、暑くなる前には会いに行くよと話をしていた。

4月13日、叔父さんから連絡が来て、祖父が肺炎になったと聞いた。肺は真っ白で、酸素吸入器で普通の人の4倍酸素を入れているのに、血中濃度が低すぎると叔父さんの奥さん(看護師)が言っていた。水の中で溺れているような感覚らしい。もしこのまま悪くなれば、連休前までもつかどうか分からないとお医者さんに言われてしまったみたいで、会うなら早いほうがいいかもと連絡をしてくれた。両親と私と姉は北海道へ行くことにした。

15日の様子を少しだけ動画で送ってくれて、みんなと話はできていた。ただ、コロナだからか、肺炎という病気の性質上か、祖父の容体があまりよくないのか、面会が許されない可能性が高いといわれてしまった。その場合はテレビ電話ができるらしい。

祖母には会える。祖母は痴呆が始まってしまい、私を覚えてくれているかは分からない。叔父にも大人になってから会った記憶がないし、最後に祖母にあったのはたしか5年前だと思う。

母の実家、この間まで祖父母がふたりで暮らしていた家は今誰も居ない状態で、取り壊すか人に譲るか考えなければいけないので(雪が降り積もると潰れるので、放って置けない)最後に行ける機会でもある。

 

 

昨日の夜から今日、祖父のことを思いながらぐずぐずと涙を流し、早く会いたいと気が急くのでゲームをしたり(ゲームしながらも泣いている)ぼんやりSNSを見たりしていたのだけど、ゲームは全クリしてしまい、SNSは虚しくなってやめた。昨日の昼、北海道へ行くことが決まる前に買っていたゲームはプレイする気が起きず、開封せずに棚に閉まった。

私にはなにもない。SNSを見ているときらびやかすぎて勘違いをする。目に入ったものが手に入るように感じるし、何か分かったような気になる。実際はそうではなくて、手に入れる努力すらしないものがほとんどなのに。物が溢れてる部屋を見渡して、たくさんの食べ物を食べ、こんなに必要ないなと思う。買ってみようかなと貰った高級なファンデーションのサンプルが急に褪せて見えた。32歳にもなって自立すらしていない、仕事も気まぐれ、的外れな人ばかり好きになってフラれてを繰り返す、子供の頃からまるで成長していない自分が恥ずかしくなった。私が世間から疎外感を感じ、鬱っぽく家に篭りがちだったころ、私を責めることなく「なにか考えがあるんだと思う」と唯一味方をしてくれた優しいおじいちゃんにあわせる顔があるのかなと考えた。全然ない。ないけど、会いたい。会いたい人と会う時、会いたいの気持ちだけで十分だとも思う。仕事はあまり忙しくないという話をしたら、「よく働くんだよ」と電話で祖父は言っていた。たくさん働こう。祖父と同じくらい穏やかで誠実な人と出会って大切にしたい。目標を持たないとだめだな。

4/1

イトコと東京へ。9時に家を出る。「推しのCDが買いたい」とのことで、11時過ぎに渋谷のタワーレコードへ。初めて行きました。

買い物を済ませて、そのまま原宿まで歩いてキディランドへ。ちいかわのボールペン、ワッペン、ミニフィギュアを買って、一回だけガチャガチャ。ラッコ先輩が出た。人気なんだなぁ、すごい人混みでした。

「新大久保で食べ歩きしたい!」とのことで、電車に乗って新大久保へ。行列に並んでチキンを食べる。私の口には合わないなと思ったけど、イトコはおいしいおいしいと食べてて良かった。

f:id:painful-ira:20230403004123j:image

見かけたカフェに入って休憩。クロッフルというものをはじめて食べた。はちみつと、ふわふわした何かと、ヨーグルトクリームチーズが乗っているやつ。甘いからブラックコーヒーでよかったー。

f:id:painful-ira:20230403005104j:image

その後「安い化粧品屋さんを見たい!」「推しのカードが欲しい!」とのことで池袋のISPにあるアエナと、K-POP館へ。私はトレカが欲しいわけではないし、他のお客さんの邪魔なのでお店の外で待つ。30分待って、出て来ず。催促して、そこからまた20分くらい待つ。

「お母さんにお土産買う」とのことで、池袋駅へ戻る。調べて、「チーズタルトおいしそう」と言っていたけど、売っている場所が分からずプレスバターサンドを買っていた。たしか大宮にお店あるよなぁと思い、予定より一本早い電車に乗って、大宮で降りる。調べたらお店が見つかったので、私もイトコも家族にチーズタルトを買って帰宅。

 

半年以上ぶりの東京で、初めて人の希望を叶えるためだけに東京に行った気がします。ちいかわランドだけ私の希望ですが、特別、どうしてもこれが欲しいみたいな目的はなかったので。大好きなアイドルに夢中で、やりたいことがたっぷりある若いイトコを見ていると、なんだかとても切なかったです。背伸びをしてまで欲しいものがまったくなくなってしまったし、都会がきらきらとして見えなくなった事に気付きました。あと最近、1人で出かけることに寂しさを感じるようになったり。1人が圧倒的に気楽なのだけど、自由がきくぶん、色んなことを欲張りすぎて計画通りにと頑張りすぎ、結果体力的に疲れ果てることが多い気がする。私も一応変化とかするんだなぁとしみじみ思いました。目が疲れたのでおしまい。

スコーン覚書

牛乳 50g

生クリーム(35%以上) 70g

塩 ひとつまみ

砂糖 45g

ボウルで砂糖が溶けるまでよく混ぜる。

薄力粉 200g

ベーキングパウダー 10g

バター 50g(1cm角に切っておく)

これらをFPで撹拌。粉にバターが馴染んだらボウルの液体類を加えてまた撹拌。大体まとまったら冷えた台に出して、手で一方方向に伸ばす。ベタつくのでカードで生地を集める。これを3回は繰り返す。まとまってきたら打ち粉(強力粉)をして、ひとまとめにしてラップに包み3時間〜1日冷蔵庫で寝かせる。

正方形にして上下左右を切り落として4等分、切り落とした分はまとめて成型。表面にといた卵を塗って、200°で15分、残り5分でアルミホイルをかぶせる。余熱でやっと火が入りきったので、200°10分、180°に下げて7分くらいでもいいかも。

一般的なレシピより水分量が多いので、外さく、中しっとりふんわり、甘い、朝食というよりおやつ向けのかなりリッチな味のスコーン。重いので、1つで満足感がすごかった。残りは冷凍。奮発して買ったエクリチュール(小麦粉)が余ってるので作ったけど、他の粉でも試してみたいな。