なんでも良しとしとくれよ。

そういうことです。

追い越していく

湖の上で群れるカモたちを久しぶりに眺めた気がした。犬がいた頃、散歩に出ると水田や川で春や秋によく見かけた。私は散歩というものを全くしなくなったのだとその時やっと気付いた。

風が柔らかく暖かくなったのに、足や手の指先はまだ冷えている日が多い。労わるでもなく、私はやっぱり自分の心や体の声を無視し続ける。

 

私は恋人に笑われるのが好きだ。かわいいと褒められる事より、笑ってもらえる方が嬉しい。この積み重ねは、いつか見下されるようになる原因の種になったりするのだろうかと考えた。別にそれでも良いと思った。対等じゃなければ関係は終わりだ。稀に発揮する他人に対するこの執着のなさが自分で怖くなる時がある。縋り付けばいい。その可愛げがない。正確にいうと、そういう気分かどうかで態度が変わる気がする。それくらい自分がなく、わがままなのだと思う。大きな理由があれば、思い出の詰まったスマホもあっさり捨てられる。

どうして私はこの人と付き合っているのか、私はこの人の何が好きなのかと考えることがよくあって、自分の気持ちが分からなくなっていた。先日「もし別れたら」の想像話をしていて、想像しただけで悲しくてぽろぽろと泣いてしまったので、私は彼のことが好きなのだと思う。*1それが時間や思い出の積み重ねで出来た情に過ぎないとしても、好きは好きで良いのかもしれないとやっと思えた。かなり友情に近いとも思う。でも、今はこれで良い。恋愛のセオリーみたいなものがインスタやXで飛び交っているのを目にするたび私はとても混乱していたけれど、それは他人のものであって、私たちには私たちの付き合い方があるのだとじわじわ納得し始めている。続くものは続くし、別れる時が来るなら、きっとそうなるべくしてなる。今自分のことを蔑ろにして生きている私に恋人のことで悩む容量もないし、こういうゆとりのない時は大切なものを根こそぎ台無しにする危険があったりもする。大切なものは、心の中の誰にも入れない場所にいれて、自分でも壊さないようにしないといけないな。

 

そのくらい余裕がないので、ガチ勢たちの言葉に耳を(目を?)貸す暇もなかった。忙しく余裕がない方が心身には良いのかもしれない。私に代わって話を聞いてくれる人を探す、のではなく、壁打ちで各々の不満や溢れ出てあまる愛情が発散できるようになることを祈るのでした。

*1:想像の話で泣くのは反則、となぜか責められたのだったw