なんでも良しとしとくれよ。

そういうことです。

4/20、4/21

20日、両親と姉と一緒に茨城空港から新千歳空港へ。驚くほど風が強い。レンタカーで移動して急いで吉野家でご飯を済まし、23時過ぎに祖父の入院する深川の病院に到着した。叔父さんも丁度到着して、18年ぶりに再会した。老けたのもあるけれど、ひどくやつれていた。

時間外なのでインターフォンを押して入って、消毒や名前の記入を済ませ、祖父の病室へ。祖父は目を閉じて酸素吸入器をつけ、点滴と薬のために両腕に針が刺されていた。枕元に名札があって、その横に私のあげたお守りが下がっていた。熱がある様子で脇や鼠蹊部を冷やしていた。声をかけたけど、何を言って良いか、散々考えてきたのに、分からなかった。今日は納内にある祖母の兄妹の娘さんである百合子さんのお宅に泊まらせていただく。祖母は和室で寝ていたので起こさず、1時くらいまで叔父さんと話をした。

昨日、あまりの痛みと苦しさに祖父は暴れ苦しみ、「もう殺してくれ」と涙を流していたらしい。医者と相談し、朦朧とする祖父に承諾を得てモルヒネを使っているとの事だった。絶対に弱音を吐かない父親のあんな姿を初めて見たと叔父さんは言っていた。強い薬なので意識はなく眠っている感じで、耳は聞こえてると言われているらしい。祖父の辛さも知らず、私が会いに行くまで頑張って生きていて欲しいと願っていた自分の身勝手さすら憎かった。

 

4/21

目覚めて、朝ごはん。身支度を整えたり荷物をまとめて、祖母が起きるのを待つ。姉が祖母を起こし話していたので私も顔を出す。痴呆があっても一応私のことを覚えていてくれて、顔にそっとさわって「丸くなったかい?」と言っていた。笑。「もうしばらく寝かせて」と言い眠ってしまった。話を聞くと、ほとんど食事をとってくれないし、毎日12時間くらい寝ているらしい。11時近くに家を出て病院へ。昨日と変わらない姿の祖父と15分面会をして、中華料理屋でご飯。ラーメンやチャーハンを小鉢によそったら、祖母は食べてくれた。祖父母の家へ行き、荷物を下ろして少し買い物へ。

晩御飯を食べていたら病院から電話が来て、夜の20時過ぎに叔父、母、私で病院に駆けつける。祖母が「行きたくない。話しかけても何の反応もしないおじいちゃんを見ると、頭から離れない。元気な姿で覚えていたい」と言うので、悩んだけど孫として私が行くことにした。1時間半は居たと思う。到着した時、電話をくれた時より安定したと言っていて、そこから動きはなかった。叔父の疲労もピークで、一旦帰ることにして病室を離れた。

もう少しで家に着く時に病院から電話がかかってきた。Uターンして戻り、走って、病室に駆け込んだけれど、間に合わなかった。脈が0になって、看護師が「すぐご家族が来ますよ」と呼びかけて戻り、また0になり、戻り、また0になって10秒くらいしてから私たちは病室に駆け込んだらしかった。1つでも信号に引っかからなければ、きっと間に合った。退院の予定だった今日、22時22分に亡くなった。看護師さんは「とにかく本当に本当に優しい方で。教育実習の子にも優しいし、ご飯は必ず残さず食べてくれて、野球をこっそり見せてくれたり。」と言っていた。遠方から来ていることも知っているので「間に合って良かった」とも。私の中では、間に合ったのか、分からなかった。

死亡確認を済ませたあたりで、父と姉と祖母が来てくれた。ため息をつき、「とうとう置いていかれちゃった」「じいちゃーん!目ぇ覚まして〜!」と祖母は言った。荷物を全てまとめて帰宅して、急いで和室を片付けて、深夜1時過ぎ、祖父の亡骸を運んでもらった。お風呂に入って寝る。