なんでも良しとしとくれよ。

そういうことです。

じゅげむじゅげむ

普段何も言わないのに、これ共感して欲しいんだろうなって時だけ察して声かけて分かる分かるって言う人間が見ていて好きじゃない事に気づきました。自分がされて嫌だというわけではなく、見ていて好きじゃない。

気遣って声をかける・声をかけないって選択があると思うのですが、それ以外の下心が見えると物凄く気持ち悪くなるんです。声をかけられている側がそれに気づいていないと尚更です。

私は人と話す仕事をしているので、普段嫌われたり傷付いたりする覚悟で話をしているつもりです。その覚悟はある程度私生活にも必要だと思っていて、そこを軽く見られがちになるのは腑に落ちないのだと思います。

ネットに関しては、基本的に、言葉を書くのは壁を越えたい人間の作業だと思います。

それを普段しない、黙って見ているだけの人間が「この人は配慮がある」と評価されてると「なんで…」と僻んでしまうのかもしれません。普段場を賑やかす事なく、たまに「私はちゃんと見てます」とアピールする様な人間がおそらくかなり嫌いなのだと思います。合コンで基本黙ってたまに水をさす上司みたいな。おどけて馬鹿やってくれてる部下が物凄く愛おしくなります。これは違うか…。

 

ただそれは結局自分の力不足と、相性に過ぎないのです。私と好きな人の相性より、他の人と好きな人の相性が抜群に良い、みたいなもので、どんなに私が言葉を並べても伝わらない事が、たまにポツンと呟くだけの人の言葉で伝わったりします。

それが悲しいから言葉を書く、本を読む、人と話す、考える、また言葉を書くの繰り返しになるわけですが、そんなにピタッとハマるピースを生まれ持ってる人間に、持たざる私が敵うわけがないのだと思います。

人には分かり合えない面というのが必ず存在して、今までの私だったらそれに対していちいち悲しんでいました。それを「悲しむ必要ないよ」と言う人は一定数居ますし、みんな割り切って生きています。悲しむ必要なんかない時は確かにあります。飲み込む力が求められる時もあります。でもそれは、私にとって大概は、相手がどうでも良い人間の場合です。どうでも良いというのは、雑に扱って良い人というわけではなく、私の人生の中でちゃんと配役がついている人です。同僚とか、友達とか、心を通わせる範囲が決まっている人。

相手にとって私がどうでも良い人間であっても、私にとって相手が大切な人間であるなら、理解につとめたいのです。恋愛感情の有無とか、信頼関係の有無とか、そういうのは端に置いといて、理解しようと頑張ってみても良いと思っているのです。分かる気配が全くなくても。大勢にする訳じゃないもんな。時間は無駄にしません。

 

あと全然関係ないのですが、M-1グランプリの様に絵画1グランプリがあったらどうなるだろう?と想像しました。美術館に行けば「意味わかんない」と言ってる人に必ず3人は出逢います。絵画は歴史との結び付きが強い物であり、世界的に評価され名を馳せた絵を描いた人間は大抵死んでいるので、どんな評価を下されてもその絵はそれ以上の進化を遂げないことを考えると、世界中の人間がその映像を見て、酷い論争になったり国同士がいがみ合うだろうなとそこまで考えてやめました。妄想も汚い世界も夢の中で十分です。寝よ。