なんでも良しとしとくれよ。

そういうことです。

初めてのIMAXでジョンウィックみたはなし

トーホーシネマズ新宿のIMAXレーザーで『ジョン・ウィック コンセクエンス』を見てきました。

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新宿で映画を見る事が初めてで、IMAX自体が栃木にはありません。画面が大きくて綺麗、音も心臓に響いてくるぐらいの迫力で良かったです。追加料金がかかるので少しだけ悩んだのですが、ほぼ満員の映画館というのも初めてで、たくさんの人と一緒に映画を見るって楽しいなぁと思った。上映前のIMAXの広告が長かったけど、既にお客として座ってる人たちにそんなにアピールせんでも。

 

ジョンウィックシリーズは4作目。主人公のジョンは亡き妻が贈ってくれた子犬を銃殺して愛車を盗んだマフィアの息子を殺すことを目的に、裏社会に復帰する。そこから自由を得るために立ちはだかる障害を殺しで解決していく。懸賞金をかけられ世界中から狙われる存在になったジョンがどうなっていくのか、今作は、裏社会の秩序を壊した報い(コンセクエンス)をどう受けるのかという話。

 

私はとにかく犬が好きなんで、人間がどうなろうが犬が死にさえしなければ後はどうとでも、というふうに見た。あらゆる犬が可愛くて良かった。とにかくずっと戦っていた。銃、ヌンチャク、犬、弓、刀、車、柔術だったりとか。私は何がどうすごいのかは分からないけれど、ずっと釘付けではらはらしていた。彼の求める自由がどういうものであったとしても、強いから大丈夫と分かっていても、傷ついてほしくない。ボロボロになって戦う姿がとにかく悲しかった。

もし今作でこのシリーズが終わるのであれば、それはそれで美しく良い終わり方なのではと思った。恋人は納得せずの様子で、あと二回見るーと言っていた。

 

地元の映画館で見たら、IMAXで見たから物足りないと言っていて、うーんスクリーンの大きな映画館とかも探しといてあげようかなぁと思った。グランドシネマサンシャインとか、魅力的だけれどわざわざ行くのが大変なので、近場で。

お気持ち表明

人を見下してる人間は、大抵見下されていると思っています。私自身に何があったでもなく、客観的に他人を見ているといつもそうで、それは例外なく私にも当てはまるのだと感じる。

残念ながら、歳をとらないと分からない事というものが、やっぱり人間には必ずあるのだと最近気付きました。

例えば私がどれだけ底辺な生き様をしていても、5つ6つ歳の離れた人間と接していると、今この辺なんだな、と思う時がある。『そこからこうなって、ああなっていくけれど、この人はどこで落ち着いて、何を選ぶんだろう』と考えたりしています。私の場合、きっと子供を持つと人生においてこの感覚を得るのがとても早かったのかもと思いました。未熟な存在が常にそばにいて、力を注がないと育たないもの。自分が辿ったものを別の人間がなぞっていくのを見つめる作業。

そして生き方の他にも老いというものが関係していて、衰えている実感を少し得るだけでなんとなく安心して、周りを見れるようになった気がします。冷静に同世代の周りを見たら焦るだけなのですが、焦っただけじゃなにも変わらないなと思いながら、あっぷあっぷしている年下の子達の手を取るくらいしか私にはできません。私に手を取られたとて。

どんだけ底辺でもてめぇよりは長く生きてんだから舐めんなクズが、ということを言いたかっただけです。書き出しにもどる。イーヤーヤダヤダ!

燃え上がる

職場の環境が不安定でご無沙汰でした。関わる人間が変わると人間の性根がよく見え、他人の抱え持つその毒にだいぶやられていた気がします。他人事だと割り切る冷たさも持ち合わせていきたい。

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恋人が出来たのですが、あまり実感なく過ぎていく日々です。ウインドウショッピングしたり、海に行ったり、夜景を見たりしていて、結構な頻度で会っている(私にしては、他人と)にも関わらず。これが恋人のいる生活…いや、友達…?違いって、なんだろう。とか考えている33歳です。わりとヤバい自覚はあります。

元々私が気になっていて近付いて仲良くなり、彼は他の女性を好きで、さらっと振られ、後日なぜかまた振られ(告白していないのになぜか…)それでも職場では会うので、はやく終わらないかなこの仕事、と思いながら務めていたら、「付き合ってみます?」と聞かれ、応えてみた流れなので、なんとなく、相手からしてもお試し感があるんだなと思うと愛を素直に受け入れられずにいたのです。

相手が初めての年下だからというのもあるのかもしれません。今まで恋愛として私のそばにいたのはみんな年上で、恋人としての振る舞いや雰囲気作り、恋人として許されるラインの線引きとかをハッキリとしてくれていたのだと。若い頃と違って盲目にならず相手の良い所も悪い所もよく見えるようになってしまったし、おのずとときめきみたいなものが減っているんだろうなと自分で思います。このくらい冷静に見れる方が、依存気質な私にとっては健全なのではとも。

私が彼に対してリードを出来るのかというと、怪しいところがあります。でも私が頑張らないと難しそうな気も。恋人がいる生活も楽しいんだなと思う反面、慣れてなさすぎてリズムが崩れ、ストレスもかかっているのか、常に腹の調子が悪いです。w会っていない間も考え過ぎず、ほどほどの距離感で、でも大切に出来るように頑張らないと。

 

今年、初めて梅シロップと梅酒を漬けました。シロップは1週間弱で出来上がって、炭酸水で割って飲んでみたらおいしいのなんの。失敗もしなかったし、ビックリしました。梅酒は半年くらい…冬まで待って飲んでみます。もっとたくさん作れば良かった〜!!!

暴風

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おじいちゃんが死んじゃった。風の強い一日だった。前日の面会時、看護師たちは「間に合って良かった」と言った。意識のないおじいちゃんの傍らで、私は間に合ったのだろうかと考えた。何日間も考えたお見舞いの言葉は頭からとっくに抜け落ちていて、「遅くなってごめん」「またくるね」しか言えなかった。前の記事に書いた通り、最後の時も私たちは間に合わなかった。脈がなくなる瞬間立ち会わなかったのだから、間に合わなかったのだと思う。親戚たちに「間に合ったの?」と聞かれて、叔父さんは「間に合わなかった」と答えていた。分からない。おじいちゃんはどこか自分のタイミングで命を手放したように思えた。私たちを待ち、再会し、心を整える夜を一日くれただけでもありがたかった。

 

あまりおしゃべりな人ではなかった。不思議なことに、普通のことを話しているのに面白い人だった。ぬいぐるみの様に座って、みんなの話をぽやっと聞いているのも好きそうだった。カラオケ大会で優勝するほど歌が上手かったらしい。トランプで遊んでいる時は「ハートのエースが出てこない」とよく歌っていた。引き出しにしまわれたトランプを見てみたら、ハートのエースはどれよりもボロボロだった。トランプで何回わざと負けてくれたんだろう。庭には洋梨の木があり、元々農家だったからか育てるのが上手で、毎年美味しい洋梨の実がなった。それを栃木まで送ってくれたこともあって、私はタルトにして焼いて食べたのを覚えている。

 

私が子供の頃から、おじいちゃんは日記をつけていた。天気と、その日あったことを3行くらい書いていて、私はおじいちゃんと眠る時だけそれを読ませてもらったのを覚えている。数年前、終活するからとほとんどを処分してしまったと聞いたけれど、病室に今年の手帳が置いてあり、それに日記が書かれていた。叔父さんに「読んであげて」と言われたので、目を通した。入院しても、おばあちゃんを案ずる言葉や、身の回りを整理する叔父への感謝の言葉が綴られていた。『つらい』や『悲しい』という言葉がなかった。『地獄』という記載はあって、そういえばおじいちゃんはそういう表現をする人だったな、と思い出した。

栞がわりに手帳を買った時のTSUTAYAのレシートが挟まっていて、形見分けというと大げさかもしれないけれど私はそれを貰った。よく見ると、そのレシートの日付は2022年の1月だった。要するにおじいちゃんは去年も同じ手帳を買い日記をつけていて、ずっとこのレシートを栞がわりにしていたのだと思う。レシートの裏にはおじいちゃんの字で『過去を追うな。未来を願うな。今やるべきことを為せ』と書かれている。調べたら、お釈迦さまの言葉だった。こっちに帰ってきてからコピーを撮って、ラミネートして栞にした。レシートに記載のあった、同じ手帳を買って、日記をつけ始めた。自分しか読まない、自分が満足すればそれで良い日記というのも、良いなと思う。今回暖かいものに触れすぎて、我に返った所もある。自己顕示欲の塊、SNSが気持ち悪く見えて仕方がないので、Twitterすら寄り付かなくなった。Instagramもまあ見ないし、ネットニュース類はそもそも疎いので、これでいいのかもなと思う。

 

最後にあった5年前、おじいちゃんに言われた言葉を思い出す。「いつ会いにきたっていいんだ。まあ、会いにきたって、話すことないって思うかもしれんけど、でも、死んでからじゃ遅いからな。死んじゃったら終わりで会えないから、会える時に会わんとな」とおじいちゃんは言っていた。いつも通り、床に座り足を撫でながら言っていた。私はそれに応えなかったことを、この先もずっと折に触れて後悔すると思う。おじいちゃんが入院するまで、おばあちゃんの身の回りのことはおじいちゃんがやっていた様子で、もう大分耳が遠くなって、数分前のことも忘れてしまうおばあちゃんと、2人で暮らせていた事は本当に奇跡的ですごいと思う。それと同時に、おじいちゃんが亡くなったことを覚えていられるかすら分からないおばあちゃんが1人ぼっちになってしまった事が切なくて、また会いに行かなきゃと思いながら帰った。

どうしてこんな家に産まれてしまったんだろう、と思っていた子供の頃の私を、ひっそりと救ってくれていたのがおじいちゃんだった。この人と血が繋がっているということが、嬉しかった人。私もおじいちゃんみたいな人になれるように頑張らないと。

4/24、4/25

4/24

葬儀場で目覚める。のろのろと化粧をして、朝食。鱈がおいしい。喪服に着替えてお葬式。長いお話を聞いていたけど、正直少し眠くなった。あっさりと帰るよりは温かみがあって嬉しい。トイレに行っている間に棺桶に別れ花を入れ始めていた。帽子やメガネを入れていて。私はいくつか花を入れたけれど、もう涙は我慢できる段階じゃなかった。姉と一緒にぐずぐずと涙を流した。蓋をして、顔の窓を閉じて、一緒のバスに乗って焼き場へ。北空知葬斎場という場所で、私の先祖の墓のすぐそばだと知る。最後のお別れをして、そこでも泣く。待っている間お昼ご飯を食べ、姉とおしゃべり。みんなで骨を拾う。私と従兄弟だけが、少しでも残したくなくて最後までしつこく拾っていた。骨壷を持って葬儀場へ戻り、骨揚げ法要を行う。北海道ならではなのか、49日を前倒しで行うようなものらしい。

祖父母の家に帰宅して、荷物を全部二階へ。今日はみんなここに泊まる。和室に小さな祭壇を作り、骨を置いて、拝んだ。余っているお弁当がたくさんあったのでそれをつまみつつ、たくさん話をして、笑って、食べて、飲んで、寝た。

 

4/25

7時前に目覚めた。サンドイッチを食べながら、『私は辛い日によくサンドイッチを食べるな』と思った。ルナが死んだ日も食べてた。のんびりと支度をした後、記念写真を撮った。おばあちゃんに「もう帰るね、またくるね」と声を掛けた。見送ってくれる?と聞いたけど嫌だと言うので車に乗る。別れを惜しんでいたら、玄関までおばあちゃんは来てくれていた。手を振って、姉と父と私だけ、10時半くらいに家を出た。母は少し北海道に残る。おじさんや従兄弟が見えなくなるまでずっと手を振ってくれていたのが見えた。優しいな。

ホームセンターで除草剤を買い、我が家のお墓へ行って撒いた。肝心のおじいちゃんのお墓は見つけられなかったので、また、もし一回忌で来れればお参りしたいなと思う。砂川ハイウェイオアシスに寄ってお土産を見ていたら、従兄弟夫婦と再会した。子供が遊べる施設があるらしい。

輪厚パーキングエリアに寄って、牛乳ソフトクリームを食べる。すごくあっさりしていて、でも物足りなさのない、乳臭さがない美味しいソフトクリームだったな。

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レンタカーを返してバスに乗り、空港へ。手続きを済まして荷物を預けてから、ラーメンを食べる。たくさんラーメン屋さんはあったけど、一幻のえびそば、あっさりにした。

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お土産を物色。旅行気分で来たわけではないのであまり下調べしておらず、悩む。お土産といってもほとんどが自分のものになった。

4/22、4/23

4/22

朝7時半にお坊さんが家に来て、お経を唱えてくれた。戒名や宗派の話を聞く。祖父はおそらく真言宗だという話だった。たくさんのアルバムを眺めながら祭壇の横に飾る写真を選んだり、洗濯をしていたらいつの間にか葬儀屋さんが来ていて、お通夜や葬儀の祭壇、供花、香典返しなどを決めていた。私は棺の色を決めさせてもらった。薄いブルー、水色をもっともっと白に近づけたような色にした。香典と、供物として姉と連名でコーヒーのセットを贈ることにした。

しまむらへ行って、数珠やネックレス、礼服やタオルなど必要なものを買って帰ったら、叔母さんと従兄弟、そのお嫁さんと猫が二匹来た。やっぱり再会は18年ぶりくらいで、大きくなったねぇ〜!とお互いに驚く。新婚で、家を建て始めているらしい。みんなで晩御飯を食べお酒を飲み、寝るスペースや布団の関係で、母父姉私はまた百合子さんのお宅へ泊めてもらうことに。ありがたくお風呂にも入れさせてもらって、話をしたりして、1時くらいには寝た。

 

4/23

喪服を持って、葬儀場のやすらぎホールへ向かう。もう1人の従兄弟と再会。奥さんと、2歳の息子もいた。祖父の体を拭く。一昨日の夜に祈りながら握っていた手が氷のように冷たかった。棺に収めたりしてから、喪服に着替えてお通夜。終わってからその場でみんなでご飯を食べた。知らない親戚の方たちもたくさん。ほとんど食べず飲まず周りと話したりしていたらあっという間に22時くらいになっていた。今日はこの葬儀場でみんなで雑魚寝の予定で、お風呂は一つしかない。時間短縮のため姉と一緒に入った。みんなが寝たあと母と姉と3人で少し飲み食いして寝た。「私たちの家の根っこはどうしても父のことになってしまうけど、もう自分の幸せを考えていいと思うよ」と姉が私に言った言葉が印象的だった。

4/20、4/21

20日、両親と姉と一緒に茨城空港から新千歳空港へ。驚くほど風が強い。レンタカーで移動して急いで吉野家でご飯を済まし、23時過ぎに祖父の入院する深川の病院に到着した。叔父さんも丁度到着して、18年ぶりに再会した。老けたのもあるけれど、ひどくやつれていた。

時間外なのでインターフォンを押して入って、消毒や名前の記入を済ませ、祖父の病室へ。祖父は目を閉じて酸素吸入器をつけ、点滴と薬のために両腕に針が刺されていた。枕元に名札があって、その横に私のあげたお守りが下がっていた。熱がある様子で脇や鼠蹊部を冷やしていた。声をかけたけど、何を言って良いか、散々考えてきたのに、分からなかった。今日は納内にある祖母の兄妹の娘さんである百合子さんのお宅に泊まらせていただく。祖母は和室で寝ていたので起こさず、1時くらいまで叔父さんと話をした。

昨日、あまりの痛みと苦しさに祖父は暴れ苦しみ、「もう殺してくれ」と涙を流していたらしい。医者と相談し、朦朧とする祖父に承諾を得てモルヒネを使っているとの事だった。絶対に弱音を吐かない父親のあんな姿を初めて見たと叔父さんは言っていた。強い薬なので意識はなく眠っている感じで、耳は聞こえてると言われているらしい。祖父の辛さも知らず、私が会いに行くまで頑張って生きていて欲しいと願っていた自分の身勝手さすら憎かった。

 

4/21

目覚めて、朝ごはん。身支度を整えたり荷物をまとめて、祖母が起きるのを待つ。姉が祖母を起こし話していたので私も顔を出す。痴呆があっても一応私のことを覚えていてくれて、顔にそっとさわって「丸くなったかい?」と言っていた。笑。「もうしばらく寝かせて」と言い眠ってしまった。話を聞くと、ほとんど食事をとってくれないし、毎日12時間くらい寝ているらしい。11時近くに家を出て病院へ。昨日と変わらない姿の祖父と15分面会をして、中華料理屋でご飯。ラーメンやチャーハンを小鉢によそったら、祖母は食べてくれた。祖父母の家へ行き、荷物を下ろして少し買い物へ。

晩御飯を食べていたら病院から電話が来て、夜の20時過ぎに叔父、母、私で病院に駆けつける。祖母が「行きたくない。話しかけても何の反応もしないおじいちゃんを見ると、頭から離れない。元気な姿で覚えていたい」と言うので、悩んだけど孫として私が行くことにした。1時間半は居たと思う。到着した時、電話をくれた時より安定したと言っていて、そこから動きはなかった。叔父の疲労もピークで、一旦帰ることにして病室を離れた。

もう少しで家に着く時に病院から電話がかかってきた。Uターンして戻り、走って、病室に駆け込んだけれど、間に合わなかった。脈が0になって、看護師が「すぐご家族が来ますよ」と呼びかけて戻り、また0になり、戻り、また0になって10秒くらいしてから私たちは病室に駆け込んだらしかった。1つでも信号に引っかからなければ、きっと間に合った。退院の予定だった今日、22時22分に亡くなった。看護師さんは「とにかく本当に本当に優しい方で。教育実習の子にも優しいし、ご飯は必ず残さず食べてくれて、野球をこっそり見せてくれたり。」と言っていた。遠方から来ていることも知っているので「間に合って良かった」とも。私の中では、間に合ったのか、分からなかった。

死亡確認を済ませたあたりで、父と姉と祖母が来てくれた。ため息をつき、「とうとう置いていかれちゃった」「じいちゃーん!目ぇ覚まして〜!」と祖母は言った。荷物を全てまとめて帰宅して、急いで和室を片付けて、深夜1時過ぎ、祖父の亡骸を運んでもらった。お風呂に入って寝る。