なんでも良しとしとくれよ。

そういうことです。

善意と悪意

酷い雨が降った日、初めての仕事をした。

自転車で来たの?と彼は驚いていて、私免許ないよ、と言いながらカッパを脱いで彼の部屋に足を踏み入れた。

「シャワー浴びてきたけど、髪乾かし直した方がいいかなぁ?」と聞いたら、うーんと髪を触って、大丈夫だよと答えてくれた。

上着を脱いで椅子に座ると、彼も向かいに座って、細かい仕草を伝えられる。

言われた通りにしたら、彼は紙に向かいだした。タイマーの音ではっとして、気がついたら15分が経っていた。

「ほんとむずいわお前の顔。ホクロ多いからアタリつけやすいかなーと思ったけど、逆に多すぎ」

「あらそうですか」 

また同じように座れるように、床や足にテープを貼ってから立ち上がり、伸びをした。

首が落ちそうに痛くなっている。動かずに止まっていることというのは、意外としんどい。

 

お茶を入れてくれて飲んでいたら、その手首どうしたの?とテーピングのことを聞かれる。

職場の人や、知り合い、いろんな人に聞かれるけれど、大抵は、「ちょっとね」と答える。濁した方が話は早く終わるし、本当のことは話せない。

その事を考えていたら、話したくないなら大丈夫、と彼はにこやかにこちらを見ていた。

この人には、抗えない感覚が私にはある。

 

 

 

元の位置に座り、また彼を見つめる。考えていたことがあった。

私がこの怪我を負った時、私の腕を掴んだ男の事だった。

駅前で声をかけられ、道を聞かれ、答え、いくつか質問をされた。

お笑いよく見るんですか?とか、○○って知ってます?僕友達なんですよ、とか

そういうありきたりな言葉だった。

ただ、しつこくホテルに誘われ、手を掴まれて振り払った時に言われた言葉は

「○○のこと、殺しちゃうよ?いいの?」だった。

勿論言葉をそのまま真に受けたわけではない。それでも何度も頭を下げて、すいません、とその場を去った。

付いてこられたことも、どうしよう、とは思ったけれど、あんなに人がいる場所で拉致されるでもないし、少し怖い、くらいだった。

ただ、彼から感じた彼自身の狂気と、その矛先に置かれている人がいる事を思うと

伝えるべきかもしれないと思い、判断してくれる人にメッセージを送った。

 

芸能人は、きっと好かれることにも嫌われることにもある程度慣れているし、陰口程度で心は折れないと思う。

でも、こうやって実際に名前を出して、脅迫に使う時点で、何か恨みがあるのだと思う。

テレビやインターネットを介している感情が、表に出るにはハードルがあるはずだ。

劇場に入って、周りを見ると、若い女性のお客さんとか、綺麗なお姉さんがいたりして

幕が開いて彼を見た時、ああ、嫌だなぁ、と思った。

今周りで笑ってる人たちや、舞台に立って輝いてるその人が、万が一傷付けられたら、私は、多分自分が傷付くより、悲しい。

そう思って送ったメッセージだけれど、でも、私がした事は、本当に善意なのだろうか。

そういう人がいる事くらい、きっと想定はしている。それを本当に居るよと伝えてしまう事は、優しい事なのだろうか。

後ろから刺してきそうな、かなり様子のおかしい、というか、異質さを感じる人だった。

アルコール依存症だった時の父に似ている。空気が、貞子に似ているというか。

きっと何かがあった時、それを防げるかどうかは彼次第で、そんなの、結局は運だ。みんな同じ。

 

 

 

「ねえ」と口を開く。彼は驚いた顔をして、どうしたのと聞いてくれた。

「ごめん話さない方がいいね」

口を閉じて、じっと彼を見たら、いいよ、と答えてくれた。

「もし好きな人の事を嫌いな人がいてさ」

「うん」

「その人が好きな人を傷つけそうだったら、好きな人に気をつけてって言う?」

「どの程度傷つけそうなの」

「わかんない」

「なにそれ」

ちょっと呆れた風に笑われて、恥ずかしくなる。こんな質問されても、困るに決まってる。

「もしもの話?まー俺だったら言うかな、一応。言っとけばよかった、ってなりたくないじゃん」

単純明快な答えに、そっか、とつぶやいたら、いや、気になるから!と笑いながら突っ込まれる。

「いいけどさ、詳しく言わなくて。でも、誰?好きな人」

「そういう好きじゃないよ」

「ふーん。まー頭おかしいやつとかいるから、気をつけてな」

お金をもらう以上、これは私の中では仕事だ。また静かに彼を見つめて、休憩してを繰り返し、2時間で終わりにした。

雨はまったく止む気配がなくて、少しでも弱まってから帰った方がいいねという話になり、2人とも静かに本を読んだ。

 

 

 

さっきのさ、と突然彼が口を開いたので、どきっとする。

「挨拶とかと同じと思っていい気がするわ」

「いってらっしゃい、のあとの、気をつけてね?」

「そうその、気をつけてねを言われてる人って、確か事故に遭う確率とか本当に少ないんだったような」

「あーなんか聞いたことあるかも」

「でしょ。だから、言うに越したことないんじゃないかな」

「まぁ…そうだね。伝わるかどうかもまた別だし。ありがとうね」

彼はいつも前向きだ。明るくて、綺麗な心をしていて、人の気持ちを汲もうとしてくれる。

そういう人の言葉は、ちゃんと腑に落ちるというか、落としてくれる。

そういう風に私は直に側にいるわけではない。

からしたら本当に居るのかどうかあやふやな存在であろう私が、気をつけるように注意を促すのであれば、はっきりと言った方がいいし

言ったところでそんな存在から向けられる言葉は無に近いかもしれない。

それでも、つらい目にあいませんようにと願うのだから、それは、言うべきことだったのだと思う。

 

 

 

結局雨は止まず、弱まりもしないので、合羽を着て、「奧さんによろしくね」と家を出る。

「俺、そういう他人に一生懸命なとこ、いいと思うよ」と全然関係ないことを言われ、笑った。

「あははっ、やりすぎも、考えものだから、ほどほどにしとく。ありがと」

手土産に持ってきたリンゴは早く食べるように促し、家に帰った。

家に置き去りだったリンゴをかじったら、味がもうボケていて、ふっと笑った。

いつまでも、考えるようなことじゃない。

テーピングをはずして、手首を回してみる。

もう大分いいな、と思い、ゴミ箱に捨てて、スッキリした。